約束の加工

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不要な役目

通勤電車で毎日出会う人のなかで、気になる男性がいる。
その人は白人で、漫画『テルマエ・ロマエ』の主人公ルシウスみたいに彫りの深い顔をしたイケメンだ。

しかし私は英語がしゃべれない。
彼の見える場所に寄って、チラチラと様子をみるのが関の山だ。

でも脈がないわけではない。
彼も私のことを気になっているらしく、私をチラ見することがあるからだ。
ときどき目があってしまい、お互い慌てて目を伏せる、そんなこともよくある。

募る想いは日に日にまして、もっと英語を勉強しておけばよかったな、と反省しきりの毎日だ。
このまま平行線で終わってしまうのだろうか…。

私は今日も切ない思いを抱いて、いつもの通勤電車に乗る。
そしていつものように電車のなかに彼の姿を探す。
しかしどこにも見当たらない。

おかしいな、今日はお休みかしら…。
そう思って振り返ったら、そこに彼がいた。

「えっ…」
私は驚いて息を呑む。

彼は恥ずかしそうに顔をふせると、私のスーツのポケットに手紙らしきものを入れて、何事もなかったかのように離れた場所に去っていった。

会社について、その手紙をトイレのなかで胸をときめかせながら読む。
そこには、会って伝えたいことがあるとの旨が和文で書かれてあった。

とても上手な字で書かれてあるところをみると、日本人の友人に代筆してもらったに違いない。
ビジネスライク的な素っ気ない内容も、代筆者にこれがラブレターであることを知られたくなかったからだろう。
そういうところが、真面目な好青年といった感じの彼に似合っていた。

私はもらったラブレターを皺にならないように丁寧に折りたたむと、それをバックの中に仕舞いこんだ。

その日私は、いつになくテキパキと仕事を済まし定時にあがると、その手紙に記されてあったホテルに向かった。
待ち合わせ時間は、7時だった。
急いでいったので、20分前にホテルにつくことができた。

私はホテルのトイレにかけこみ、身だしなみを整える。
それから待ち合わせ場所のコーヒーショップに向かう。

見ると、すでに彼の後ろ姿があった。
隣席には、日本人らしき男性の姿もある。
日本語がしゃべれないので通訳でもつれてきたのだろうか。
私は彼のもとに向かった。

「すみません、お待たせしました」
私が言うと、彼の表情は安堵したように和らいだ。

しかし先に席をたって挨拶をしたのは、となりの日本人男性だった。
「私は、彼の友人の者です。今日はお忙しい中、お呼び立てしまして、誠に申し訳ありませんでした」

「ええ、どういたしまして」と私が言うと、日本人男性の続いて彼は丁寧なお辞儀をした。

「実は、ジョーがですね。貴方にお話したいことがあるそうなんです。それで、どうしても私に付き添ってくれと頼まれまして、お邪魔かもしれませんが、同席させていただきます」
日本人男性は私に着座を勧めながら、事情を説明した。

「そうなんですか」
私はこの人が手紙の代筆者に違いないと思いながら、席に腰掛ける。

「で、お話とはなんでしょう?」
私はジョーの顔をちらりと見てから、通訳として同席しているであろう日本人男性に訊く。

すると、ジョーは彼の耳元に手をあて、小声で何かを伝えた。

日本人男性は頷くと、私に言った。
「付き合っている男性はいますか、とジョーは言っています」

えっ、いきなりと思いつつ、私は「いません」と首をふる。

ジョーは安堵の笑みを浮かべ、さらに通訳に耳打ちする。

通訳は頷いて、私に質問する。
「恋人にするのなら、やはり和風の顔じゃないとダメですか、とジョーは言っています」

ジョーは自分が日本人でないことに臆病になっているに違いないと思い、「いいえ、そんなことありません。洋風な顔でも、ぜんぜん大丈夫です」と私は答える。

それを知って、ガッツポーズするジョー。
それから一呼吸おいて、緊張した面持ちで通訳に耳打ちした。

通訳は後頭部をポリポリかいて弱ったなという表情を浮かべながら、私の眼を見つめていった。
「もし良かったら、私と付き合ってください、とジョーは言っています」

ついに告白された!
私はこの上ない喜びにつつまれながら、通訳に「いいですとジョーに伝えて下さい」と言った。

すると、ジョーは飛び上がって、「やった!」と叫んだ。
そして「ありがとう、健介」と大はしゃぎで言って、日本人男性の手をにぎり激しくシェイクする。

「えっ、日本語しゃべれるの?」
日本人と遜色ない日本語をつかうジョーに、私は驚く。

「ええ、しゃべれますよ。ボク、生まれた時から日本に住んでいますから」とジョーは笑顔で答える。「むしろ、英語は全然ダメで、ていうか日本語オンリーです」

「だったら、何で通訳を…」
私は言葉を失って、日本人男性に顔を向ける。

「いいえ、私は通訳じゃありませんよ」と日本人男性は首をふる。「ジョーが告白する勇気がないから、代弁してほしいと頼まれただけです」

「ま、紛らわしいことするな!」
私はすっかり熱が冷めて、一顧だにせずコーヒーショップを出た。
明日から電車の乗車時間をかえてやろうと思いながら…。

迷い人

私は、とんでもない方向音痴である。
自分の家の近所すら、散歩をしていてたまに迷うことがある。

そんな人間だから、今日のように初めての場所にいくのは非常に心細い。
営業の仕事である個人宅に訪問するのだが、駅を降りて歩き始めて5分と経たないのに、もう迷っている。

日本全国、どこも似たような風景であるのもいけない。
駅前には全国展開するチェーン店が立ち並び、ビルも住宅もまるで個性がない。
そんな感じだから、私のように物覚えの悪い、かつスマホも扱えないような古いタイプの人間は迷子になってしまうのだ。

しかしそんな文句もいっていられない。
約束の時間が迫っているのだ。

私は、あまり忙しそうでなく、この地域のことをよく知っていそうな人を選んで道を訊くことにした。

そこで目に映ったのは、公園のベンチに暇そうに座る丸坊主の70才程度の男性である。
青い上下のジャージを着て、サンダル履きなので、この近所に住む人に間違いないであろうとにらんだ。

「すみません」私は驚かさないように前方に回って声をかけた。「このあたりに、住田さんというお宅はないでしょうか?」

「ああ、あるよ」と男性はうつろな目をあげて答えた。

「よかった」と私は胸を撫で下ろした。「すみません。そのお宅を教えていただけないでしょうか」

「いや、ワシも教えてもらいたいんだがね」男性はくたびれ果てた表情で言った。「ワシも探してるんだよ、その家を」

「えっ…」
様子がおかしい老人に声をかけたのを後悔し始めた時だった。

ピンポンパンポン、とどこかに設置されたスピーカーから音が響いてきた。

耳を澄まして訊いていると、行方不明者の捜索をしている旨の放送が流れてきた。
放送は行方不明者の特徴を詳しく説明し始めた。

「72歳の男性で、中肉中背。頭は丸坊主。青い上下のジャージを着て、サンダルを履いております。心当たりの方は、ご連絡下さい」

って、この人じゃん!

「もしかして、住田さんですか?」
私は恐る恐る尋ねた。

「いかにも」と老人は頷き、私の手をつかんだ。「迷子になってしまってのう。困っとるんじゃ」

おばあちゃんのお灸

「母ちゃん、お化けが出た!」
やんちゃ盛りの一人息子が悲鳴をあげて台所に駆け込んできた。

「そうなの、それは大変ね」
私は食器を洗いながら、受け流すように答える。
またわたしを担いでいると思ったからだ。

「ホントだよ」息子は力いっぱい私の腕を引っ張る。「こっちに来て」

「どれどれ」
仕方ない騙されたふりをしてやるか。
私は食器洗いを中断し、息子に手を引かれるまま、ついていく。

たどり着いた先は、仏間であった。

息子はお仏壇の正面に立つと、「ホラ」といって仏壇にあげたジュースの缶を指さした。

「アラ」
驚いたことに、ジュースの缶が勝手に動いている。

「ホントでしょ」
息子は私にしがみついて震える。

私はジュースの缶をもちあげる。
やっぱり空だ。

この缶ジュースは、さきほど冷蔵庫から出して、ジュースが大好きだった祖母のためにお供えしたものだ。
冷えて水滴がついた空き缶がテーブルなどの上で動くのはよくある現象である。

息子がこっそり缶ジュースを飲んだから、この現象が起きたのだろう。
これを逆手にとって、息子にお灸をすえてやろうと思った。

「お前が勝手にジュースを飲んだから、おばあちゃんが怒っているんだよ」
私はおどろおどろしく言った。

「えっ、ホント?」
息子は震えあがる。

「ホントだよ」

「こわ〜い!」息子はお仏壇に手を合わせて、何遍も頭をさげる。「もうしませんので、どうか、どうか、お許し下さい」

「わかった。もう悪さをするのではないぞ」
私は声色をかえて言った。

「わかりました」息子は涙ながらに誓う。「もういい子になります」

と、反省していますので、よろしくお願いします。
私は息子の後ろでご先祖様に手を合わした。

第八十七話 逃げる二匹

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「おお、そうだった。この家に重要な用件があったんだ」
プレスはこんなことに構っていられないといった様子で、そよ風の家の方に体を向けます。

「それじゃ、私たちは急ぎの用事がありますので」ブラウンはそう言うと、ケンシロウに「早く逃げましょう」と耳打ちして、歩き始めました。

「は、はい」
ケンシロウは頷き、まるでブラウンと競歩をしているかのように、大急ぎでブラウンについていきます。

「あっ、また今度機会がありましたら」
後ろからプレスの声が聞こえます。

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しかしブラウンはそれを振りきるような勢いで、ズンズン歩いていきます。

ケンシロウも、重たい着ぐるみのなかで、必死に足を動かします。
汗だくになるし、息は切れるし、重労働です。

でも、プレスから逃げるには、休むわけには行きません。
それにこんな不格好な着ぐるみ姿で、街中を歩くのは我慢できませんでした。

一刻も早く、ブラウンの家に到着して、このピンチと羞恥心から開放されたい…。
そう思いながら、ケンシロウはパンパンになった足に鞭を打ちました。

すると、ローズの待つブラウン家が見えてきました。

ブラウンはそこで初めて後ろを振り返ります。
「もう大丈夫です。プレスさんの姿は見えません」

「ああ、本当だ」
ケンシロウもそよ風家のほうに首を向けます。
確かに、プレスの姿はどこにも見当たりません。

でも、そよ風はうまく対応しているだろうか…。
そんな心配もよぎりました。

いや、きっとそよ風ならなんとかしてくれる。
そう思い直して、ケンシロウはブラウンの後について、ラストスパートをかけます。

そしてブラウン家の門の前に立つと、さっそく着ぐるみを脱ごうとしました。

「ち、ちょっと、まだ早いですよ」とブラウンは制止します。

「でも、こんな格好悪い姿をローズさんに見られたら」
ケンシロウは、必死に後頭部にある線ファスナーの留め具をさがしながら答えます。

もしかしたら、愛しのローズが玄関の向こうで待っているかもしれません。
となれば、ここでこのブサイクな着ぐるみを脱がなければ、最悪の再会になってしまうので、ケンシロウは制止を聞き入れられないのでした。

「それは心配する必要ありませんよ」とブラウンは言いました。「だって、この着ぐるみを探したのは、ローズなんですから」

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★あらすじ★

第八十六話 鉄壁の取材拒否

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「き、記事に!」
ケンシロウはブラウンに黙っているように言われていましたが、またも襲ってきたピンチに思わず声をあげてしまいました。

ブラウンは険しい表情で振り返り、「シッ!」と口に人差し指を立てます。
ケンシロウは大慌てて両手で口を塞ぎ、ブラウンに頭をペコリと下げました。

しかし幸いプレスはケンシロウの声にピンとこなかったようです。
「そうです」とプレスは表情をかえずに答えました。「取材させてくださいよ」

「取材って、何の取材ですか?」
ブラウンはプレスを睨みつけるような目で見ます。

「うちの、あっ、これは失礼しました」プレスは名刺を取り出して、ブラウンに差し出します。「ワタクシ、アルパカ市民新聞の記者をやっております、プレスと申します」

ブラウンはそれを受け取り、冷たく突き放すような口調で答えます。
「それで」

「うちの新聞に、ハッピーフェイスというコーナーがありましてね」と言って、プレスはケンシロウの顔を再びのぞき込みます。「そこに、この方をぜひ取りあげさせていただければと思いまして」

「お断りします!」
ブラウンは、気持ちのいいくらい毅然とした口調で却下しました。

「そこをなんとか…」プレスは記者根性をみせて、食い下がります。「こちらの方、とてもいい顔をしていらっしゃるのに、もったいないじゃないですか。この方の顔をみれば、読者の皆さんも、明るい気分で朝を迎えられると思いますよ」

「いや、そんなことはありません」ブラウンはピシャリと跳ね除けます。「いい笑いものになるだけです。こんなおかしな顔を世間に晒すなんて」

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「おかしな顔って…」
自分がもってきた着ぐるみなのに、そんな言い方はないと思い、ケンシロウは肘でブラウンの脇腹をつつきます。

「シッ!」
ブラウンは振り返って、再び口元に人差し指を立てます。

ケンシロウは同じ過ちを繰り返したことに気がつき、今度は頬を叩いて反省の意を示しました。

「どうしました?」とプレスは不思議そうな表情を浮かべて訊きます。

「い、いや、別に…」鉄壁の態度をとってきたブラウンでしたが、ちょっと取り乱した様子で答えます。しかしすぐに態勢を立て直し、プレスに言いました。「それより、他の大事な用事があるんじゃないですか?」

「あっ、そうだ!」プレスは大きな声をあげて、そよ風家に顔を向けました。「早くしないと、逃げられてしまう」

「そうですよ」ブラウンはシメタという表情を浮かべ、急かします。「急がないと、特ダネを逃してしまいますよ」

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★あらすじ★

似たもの親子

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袋の鼠

峠をこえた山の中腹から狭い盆地を見ると、激戦が繰り広げられた川岸には無数の死体がころがっている。

赤の甲冑の死体は、軍師寛平の属する武将赤池義清側の兵士たち。
黒の甲冑の死体は、中腹から盆地を見下ろしている武将武田宗清の兵士たちであった。

死体の数では、圧倒的に赤の甲冑のほうが多い。
青々と光る川の両岸には、鮮血で染まったような赤の甲冑の死体がゴロゴロと横たわっている。

「まるで三途の川のようじゃのう」
武田宗清は、術中にはまった赤池義清軍の惨状を眺めて高笑いする。

「はっ、赤池義清軍はほぼ全滅でありましょう」
袋の鼠という、その戦術を練った軍師猿丸はしたり顔で頷く。

軍師猿丸の考えた戦術「袋の鼠」とは、赤池義清軍を包囲し撃破するために、はじめから犠牲になることを運命づけられた兵を使って、それを追う赤池義清軍をこの周囲を山に囲まれた狭い盆地に誘導させるというものであった。
そこで、戦に夢中になっていた赤池義清軍は、茂みに隠れていた武田勢が放つ火攻めにあって敗北したのである。

天にのぼる煙柱がおさまった後、武田宗清はその地獄絵を確認するために、その盆地がよく眺望できる山の中腹におりたのである。

「これで面倒なやつがいなくなって、領土も広げやすくなったわい」
武田宗清は頬を緩ませると、地獄絵を肴にするように升酒をあおる。

「親方様の天下取りの日も近づくことでしょう」
得意になった軍師猿丸は、夢のようなことを言う。

「そうじゃのう」武田宗清も、夢に浮かれた顔を後ろに控える兵たちに向ける。「祝杯じゃ、そちらも一杯やれ」

「はっ、ありがとうございます」
兵たちは樽に群がると、争うように升に酒を酌む。

酒が尽きると、武田宗清は赤い顔をして号令をかけた。
「さてそれでは、赤池義清の首でも取りに行くとするか。皆もついてまいれ」

それに従い、武田宗清を先頭に、酔い心地の一行は賑やかに山を下っていく。

麓につくと、道端に項垂れて座り込んでいる黒の甲冑をつけた兵の集団がいた。
赤池義清軍を袋の鼠にするために、火をつけた味方の兵たちである。

武田宗清は馬の上から彼らを見下ろし、「ご苦労。遠慮はいらぬ、そこで休んでおれ」と命じた。

「はっ、それは助かります」
大役を果たした兵たちは疲れきっているらしく、顔もあげずにそのまま地面に頭をつけ礼をする。

「うむ、わしらは赤池義清の首を探しにいく。それが済んだら、そちらにも酒を飲ませてやるでのう」
武田義清はそう言って豪快に笑うと、兵の間を通り過ぎていった。

鎮火するのを待って山から降りてきたが、焼けた草木からはまだ煙があがっているとこをがあった。
それをよけながら、赤い甲冑を着た死体のころがる川岸にはいる。

武田宗清は馬から降りると、顔を確認するために、うつ伏せに倒れている敵兵を足で蹴飛ばした。

「こ、これは…」武田宗清は、ごろりと仰向けになった兵の顔を見て仰天した。「うちの兵ではないか…」

うろたえて、赤の甲冑を着た他の死体に目を走らせると、見覚えのある味方の兵ばかりであった。
なかには焼けた木に赤の甲冑をかぶせたのもある。

「では、黒の甲冑をつけた死体は何じゃ」
なぜか水辺にばかり寄って倒れている黒の甲冑の死体に目をやると、それらの死体が起きがありがじめた。
そして刀をもち、こちらに向かってきた。

「貴様ら…」
徐々に近づいてくる亡霊たちを見て、武田宗清の酔は一気に覚めた。
みな赤池義清の兵だったからである。

「親方様、後ろからも敵が攻めてきました」
軍師猿丸が声をあげた。

振り返ると、黒の甲冑をつけた敵兵の大群に囲まれている。
麓で休ませておいた兵が、敵兵だったことを武田宗清は知った。

その中の一人が声をあげた。
軍師寛平であった。
「袋の鼠は、おぬしらの方じゃ。覚悟せよ!」

「謀られた…」
油断してろくな武器をもって山を降りて来なかった武田宗清は、行き場を失い天を仰いだ。

寅さんの白熱教室(下)

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「お前は親に食わせてもらっているから、そういうお気楽なことを言うんだよ。お気楽なことを」
片想いで受験勉強に身が入らない甥っ子の満男に、しっかり勉強して立派な社会人になるよう説教してくれと妹のさくらから頼まれた車寅次郎は、そう諭す。

「じゃぁ、おじさんは愛よりお金が大事だというの?」
満男は、ビールをあけたグラスを乱暴にテーブルに置く。

「そういうことを言ってるんじゃないだろ。お金も大切だということだよ」寅は満男のグラスにビールを注ぐ。「おじさんも愛は何よりも大切だと思う。豊富な恋愛経験を経ているからな。だが、愛だけでできることは限度がある。それも豊富な恋愛経験から痛いほど学んだ」

「どういうことだよ」
酔いが回った満男の目は据わっている。

「例えばだ。ここにひとりの美少女がいたとする」寅は箸の片方を美少女に見立てて、テーブルの上に立てる。それからもう片方の箸を、その少女に見立てた箸のほうにトコトコと近づけていく。「お前はその少女に一目惚れをする。その美少女のことを想うと夜も眠れなくなり、お前は清水の舞台から飛び降りる覚悟で告白しようと、道路の向こう側にいる美少女のもとに駆け寄る。ところがだ。乱暴な運転をするクルマが少女に向かってくる。少女はよそ見をしていて、それに気がつかない。お前はどうする?」

「危険を知らせるために叫ぶ」

「それでも間に合いそうになかったら?」

「オレがその暴走車に飛び込んで、彼女を守る」

「えらい」寅は満男の頭を撫でる。「それが愛の力だ」

「そうだろ。だから愛は何よりも大切なんだ」ろれつの回らない口調で満男は言う。「わかった、おじさん」

「ああ、わかった、わかった」と何度も頷く寅。それから優しく否定する。「しかし、お金があれば、もっとできることがある」

「なんだよ、それ?」

「例えば、歩行者を守るガードレールをつくったりすることだ」

「それは行政のやることだろ。一般市民が金をだしてやることじゃないよ」

「だったら、お前公務員になれ」
話の腰を折られた寅はしかめっ面で、美少女に見立てた箸で満男を指す。

「嫌だよ、そんな固い仕事。オレに向いていないよ」
満男は手を仰いで、寅の指南を拒否する。

「じゃ、歩行者にぶつからないクルマをつくれ」寅はもう一度、満男に箸を向ける。「そうすれば、その美少女だけじゃなくって、多くの人の命を救うことができる」

「まぁ、そうだね…」
バイクに夢中でクルマにも興味がある満男は、それには納得する。

「しかしそのためには、寝る間も惜しんで勉学に励まなければダメだ」寅は、酔いで眠そうな目をしている満男の頭を箸でピシリと叩く。「お前が大学に行く意味はそこにある。わかったか、浪人生」

「痛いな。わかったよ」
頭をさすりながら答える満男。

「ヨシ。お前の志が決まったということで、朝まで飲み明かそう」寅は満面の笑みで、一本締めのように手を叩く。「おじさんごちそうしてやる。何でも好きなの頼め」

「本当」満男は疑わしい目を寅に向ける。「おじさん、お金あるの?」

「もちろんだ」と胸を張って、寅は腹巻きから長財布を取り出し、その中を覗く。「アレ、ちょっと足りないかなぁ…。満男、急いで家に帰って、さくらからお金を借りてきてくれないか」

「なんだよ、頼りないなぁ」

「だからお金は大切なんだ。愛だけじゃ飯は食えない」寅はそう言うと、手に持った箸を勢いよく居酒屋の戸口に向ける。「急げ、青年!」

「おじさん…」寅の命令に従ってしぶしぶ腰をあげた満男は、振り返って言う。「おじさんの老後の面倒は、僕がみるよ」

〈完〉

寅さんの白熱教室(中)

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「その理由はお前がいちばん知っているだろ」
甥っ子の満男に結婚しない理由を訊かれた車寅次郎は、バツの悪そうな顔をする。

「そうか。おじさんフラレてばかりだものね」
満男はアルコールが回った真っ赤な顔をクシャクシャにして笑う。

「お前、はっきり言うなよ、はっきりと」
寅は顔をしかめる。

「でもさぁ」満男は腕にとまった蚊を叩いて言う。「生きる意味が子孫を残すことにあるとするとだよ、それが正しいのなら、この蚊とか、蝿とかが、子孫を残すのを何で僕らは嫌うんだろ? 人間の都合で言っている理屈は、何か本当じゃないような気がする」

寅は、ししゃもを頭からムシャムシャと食べている満男を睨んで言う。
「だったらお前、そのししゃもを食うな。お前がいま食べているししゃもの腹には、何十個もの卵がつまっているじゃないか」

「そんなことを言ったら、何も食べられないじゃないか。餓死しちゃうよ」

「そうだろ」したり顔をして寅は言う。「ししゃもに限らず、豚も鳥も、子孫を残してくれるから、オレたちは生きていけるんだ。蚊や蝿だって同じだ。それを食って生きている生き物だっているんだから」

「食物連鎖というわけか…」

「なに、食物連座?」
学のない寅は、聞きなれない言葉に混乱した様子で訊き返す。

「食物連鎖だよ」満男は笑って説明する。「例えば、この蚊とか蝿を鳥や魚が食べるとするだろ。すると、その鳥や魚を食べる生物がいる。そういう関係のなかで、いろんな生き物が生命をつないでいけるということさ」

「お前難しいことを知っているね」寅は手を叩いて言う。「ヨシ。これなら、お前は来年大学に合格できる。おじさん保証する」

「おじさんに保証されてもなぁ」満男は鼻で笑って、再び真面目な顔をする。「でも、ボクの言いたいのは、そういうことじゃなくって、面白くもなんともない顔をして会社に勤めるような大人になるために、一生懸命勉強して大学に入ることに意味があるのかってこと。いい会社にはいって、いい給料をもらえても、そんなんじゃ全然幸せじゃないだろ。金がすべてじゃないよ」

「じゃ、何が大切だと思うんだ。浪人生」

「愛だよ」
及川泉という高校時代の後輩に片想いをして受験勉強に集中できない満男は、夢を見るような顔をして答える。

「さてはお前恋をしているな」恋愛に関しては感の鋭い寅は目を光らせて言う。「でも愛だけじゃ、人を幸せにできない。金も大切だ」

「おじさんらしくないことを言うな。がっかりだよ」
満男は落胆した表情をうかべると、ウップンを晴らすようにグラスに残ったビールを煽った。

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寅さんの白熱教室(上)

車寅次郎と、甥っ子の満男は居酒屋のテーブルに向かい合って座っている。
浪人中の満男が、何やら悩みがあって勉強に身が入らないから相談にのってくれないかと妹のさくらに頼まれ、久しぶりに帰省した寅は安請け合いしたというわけだ。

「さ、一杯いこう」寅は瓶ビールを傾け、満男のつきだすグラスにビールを注ぐ。「へ〜え、お前も酒を飲めるようになったか。二、三年前は、まだオムツしていたのになぁ」

「そんなわけないだろ。その計算でいったら、オレはまだ5歳のガキだよ」満男はグラスから溢れそうになるビールをあわてて飲みながら言う。「オレもう、19だよ」

「そうか19か」
寅は手酌で自分のグラスにビールを注いで、驚いたふりをしてみせる。

「だから、本当はまだお酒いけないんだけどね」

「かまうもんか」寅は笑い飛ばして、満男のグラスにビールをつぎ足す。「オレなんて、15で酒の味を覚えたぞ。19なんて遅いくらいだ」

「かなわないなぁ」
満男はそう言って、ビールを苦そうに飲む。
酒に慣れていないので、すでに顔が赤くなり始めている。

「で、どうだ。浪人生。勉強の方は順調にいっているか?」
寅はグラスのビールを半分ぐらい空けてから、さっそく本題に入る。

「う〜ん、ボチボチかなぁ」
気のない返事をする満男。

「なんだ、その様子じゃ、あまりマジメに勉強していないな、マジメに」

「なんかさぁ、わからなくなっちゃたんだよね」
満男は酒臭いため息をついて言う。

「何をだよ」

「大学に行く意味だよ」満男は頬杖をついてビールを舐めながら答える。「親はさぁ、いい会社に入るためにいい大学に行けというけれど、予備校に通うのに電車をつかうだろ。そのとき、朝の満員電車にゆられるサラリーマンを見ると、みんなつまんなさそうな顔をしているんだよねぇ。会社に行くのが嫌で嫌で仕方ないような」

「まぁ、ストリップ劇場にいくわけじゃないからな」

「そんな生活を何十年もしなければならないのかと思うと、勉強をする気が失せるんだよね」
満男は隣の席で愚痴をこぼし合う勤め人よりも、もっと年季の入ったような愚痴をはく。

「だったらお前。おいちゃんの家の隣の工場で働いたらどうだ。あのタコ社長の」寅は名案が浮かんだというように膝を叩いて言う。「吹けば飛ぶようなボロ工場だけど、あそこなら徒歩でいける。通勤地獄を死ぬまで味あわなくて済むぞ」

「やだよ。オヤジと一緒に働くなんて」満男はにべもなく却下する。そしてマジメな顔をして寅を見る。「ねぇ、おじさん、人は何のために生きるんだろう」

「オマエ、そういう難しいこと訊くなよ」寅は困ったように、細い目をハの字にして言う。「そういうのは、教科書に書いてないのか。教科書に」

「書いてあるわけないだろ」がっくりした様子の満男。そして夢を見るような目を天井にむける。「あ〜あ、そんなつまらない大人になるより、おじさんみたいに全国を旅して暮らしたいな」

「馬鹿をいうな」寅は一喝する。「オマエは、オレみたいな半端な人間になってはいけない。まじめに働き、家庭をもつんだ。オレみたいな浮き草ぐらしを、うらやましいなんて思うな」

「結婚して子孫を残すのが、人生の目的かよ」
酔いが回った満男は、巻き舌で毒をはく。

「そうだよ。それがまっとうな人間の人生だ」
寅は真剣な目を満男に向ける。

「だったら、なんでおじさんは結婚しないの。なんで子供をもたないの。ねえ、教えてよ」
満男はたちの悪い酔っぱらいのように、寅にからみはじめた。

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スイカのたたり

やったー!
アタシは歓喜の声をあげる。
3日ぶりにお通じがあったからだ。

ちょっとゆるかったけど、便秘よりマシ。
お陰様で、お腹のはりもとれた。

お祈りが通じたのかしら。
アタシは爽快な気分で、おトイレをでる。

朝食をとりに居間にいくと、ママが青白い顔でパパに話しかけていた。
「何だか、お腹の調子が悪くて、ちょっと下っているの」

「オレもだ」同じく青白い顔で、お腹を擦るパパ。「何か変なもの食べたのかなぁ」

ママはアタシの顔を見ると尋ねてきた。
「アナタは大丈夫。下していない?」

アタシは、今終えたばかりのお通じの具合を話した。

「そうか、みんな下痢気味か」とパパ。「原因は、昨日食べたアレじゃないか」

「やっぱり、あのスイカかしら」とママ。「変な味したもの」

確かに昨日食べたスイカの味はかなりおかしかった。
薬品のような味がしたし、ピリピリする刺激があった。

でも、歯ごたえはシャリシャリしていたし、酸味がきつかったわけでない。
腐ってはいないだろうということで、それぞれ二切れぐらい食べたが、それ以上はたえられなかった。
もったいなかったが、残りは雀の餌にということで、庭にまいた。

「やっぱり当たったのかなぁ」とパパは暗い声をあげた。

「そうかも」と頷くママ。「お盆のあいだ中、お仏壇に供えておいたから、腐っちゃったのよ」

「いや、そうじゃなくて」と首をふるパパ。「お墓参りにいかなかったから、バチが当たったんじゃないかということ」

今年は恒例のお盆のお墓参りにはいかなかった。
というのも、パパに他の用事がはいって予定がつかなかったからだ。

近くにお墓があれば、お墓参りにいけただろうが、何しろうちのご先祖のお墓は遠い。
高速で2時間もかかるところにある。
ということで、都合がつかないから、今年はやめとこうという話になったわけだ。

でも、アタシからみれば、ご先祖様は天罰をくだしたとは思えない。
むしろ、アタシの願いを叶えてくれたのだ。
そう思って、ご先祖様に便秘がなおるように祈ったことを打ち明けた。

「ナニ、そんなお願いをしたのか」
呆れた表情を浮かべるパパ。

「願いを叶えるのなら、アンタだけにしてもらいたいわ」
苦痛に顔を歪めるママ。

「あっ、またキタ!」
パパはお尻をおさえて立ち上がる。

「アタシも」
ママも続いて、飛びあがるように腰をあげる。

それから、二人は争うようにトイレに向かう。

げっそりしてトイレから戻ってきたパパは言った。
「やっぱり、来年からお墓参りに行こう」


思い出の指輪

昨日、ショックなことがあった。
彼氏の浮気現場を目撃したのだ。

相手の女は、彼よりちょっと年上。
なかなか美人だけど、気が強そうだ。
月9のドラマ『HERO』に出演している北川景子の演ずる元ヤンの事務官みたいに、彼と会話するとき眉間にしわを寄せ、鋭い眼光を光らせていた。

その横をペコペコして歩く彼。
ありゃ完全に尻に敷かれている。
情けないヤツだ。

大通りを挟んで話に夢中で歩いている向こうは、全然アタシに気づかない。
浮気をしたら即別れるって言ったの、覚えているかしら…。
ビンタでも張りにいってやろうかと思ったけど、連れの女が怖そうだからやめた。

いずれにしても、話したいことがあるから今日会いたいとメールが今朝届いたので、そのとき言いたいことをぶつけて、一発おもいっきりビンタしてやればいい。
そうだ。
好きな女ができたから別れてくれなんて先に言われるのも癪だから、こっちから別れを告げてやる。

一睡もできないくらい悔しかったので、彼との待ち合わせ場所にいく途中の川に、彼にもらった指輪をほうりなげてやった。
26にもなって定職につかないヤツの買ったものだ。
見た目はちょっと高そうだが、どうせ安物だろう。
思い出とともに、遠い海まで流れて行きやがれ。

待ち合わせの公園にいくと、すでに彼はいた。
アタシを見つけると、ヘラヘラした表情でよってきて、後頭部をかきながら「実はさぁ…」と言い始めた。

先を越されてはマズイと思い、アタシは「待って、アタシも言いたいことあるの」と強い口調で言った。

「なに」と彼。

「アタシと別れて」
アタシは彼を睨んでピシャリと言った。

「な、なんで」
かなり驚いた様子の彼。ザマアミロだ。

「アンタ浮気しているでしょ」
見栄から、好きな人ができたから別れてほしいと言おうかとも思ったが、それじゃビンタができない。だからズバリ言ってやった。

「し、してないよ、そんなこと」
彼は、青天の霹靂といった表情を浮かべる。

「ウソ。昨日年上の女と歩いているの見たんだから」と言って、アタシは目撃場所を告げた。

すると、彼は笑って、「あれはオレのアネキだよ」と答えた。「大阪で働いていたんだけど、久々に出席した高校の同級会で元カレといい感じになっちゃってさ。そいつと結婚するんだって。それで最近、こっちに戻ってきたってわけ」

「ホント?」
アタシは彼の顔を凝視する。
ウソをついているような感じじゃない。
ということは、アタシはとんでもない勘違いをしていたのか…。

「そうだったの。ゴメンネ」アタシは平謝りして、彼に訊いた。「じゃぁ、話したいって言ってたこと、別れ話じゃないんだ」

「当たり前だろ」と一笑する彼。いいヤツだ。

アタシはほっとして、彼の要件を訊く。

すると、彼はバツの悪そうな顔をして言った。
「実はさぁ、こないだオマエにやった、指輪返してもらいたいんだ」

「えっ、なんで」

「アレ、アネキがこんど結婚する男から高校時代にもらったものでさぁ。元カレからもらったものだし、いらねえだろうと思って、アネキの部屋からくすねちゃったんだよ。そしたら急にこんな話になっちゃただろ。正直に彼女にプレゼントしたって話したら、怒っちゃって。お前が目撃したの、そのことでアネキに説教されているとき。アネキこわいんだよ、元ヤンだから」

はやまった!
取り返しのつかないことをしてしまったアタシは、どうやって彼に、いや彼のお姉さんに謝ったらいいのだろう…。

少なくとも、彼との結婚は諦めたほうがよさそうだ。
そうでないと、元ヤンの小姑から、一生いびられるのだから…。

「ゴメン。やっぱり別れて」
アタシはそう言うと、逃げるように駆けだした。


買ってよ

お盆休みが終わり、今日から仕事です。

休み中は天気のはっきりせず、どこにも遊びにいきませんでした。

あまり楽しめなかったですが、よかった面もあります。
体を休めたことと、無駄遣いをあまりせずに済んだことです。

そこで今回は、買い物をテーマに漫画をかいてみました。

買ってよ+のコピー_convert_20140816083654

浜風にのって

盆の終わりに、亡くなった妹の夢を見た。

夢のなかのオレは10歳にもどり、6歳でなくなった妹と、子供の頃よく遊びにいった浜辺にいた。
浜辺には、オレと妹のほかに誰もいない。
あの時とおなじ真っ青な空と海が、どこまでも遠く広がっていた。

オレと妹は、砂浜を追いかけっこしたり、砂をかけあったり、砂で山をつくったりして遊んだ。
夢のなかだから、オレは妹がこの世の人ではないことを忘れていた。
しかし妹が海で命を落としたことだけは忘れていなかったのか、真夏だというのに、決して海には近づこうとしなかった。

太陽の傾きとともに、妹の影が海のほうに向かって伸びていくのが怖かった。
そしてついに影が波打ち際に届いたとき、妹は言った。
「わたし帰らないと」

「どこへ」とオレは訊く。

妹は地平線のほうを指さし、「あっち」と答えた。

「違うよ。家はこっちだよ」
オレは反対側を指さし、妹を引き留めようとした。

すると、妹は足元から浜辺と同じ色になり、それが見る見る間に顔にのぼっていった。
口元まで砂に変化していくと、妹は言った。
「じゃあね」

「いくなよ」
オレは妹の手をつかもうと手を伸ばす。
その瞬間、強い浜風がふいた。
そして海に向かってふく風にのって、妹は砂埃になって飛んでいった。

「なんでだよ…」
オレは泣きながら、妹の立っていた浜の砂を一握りつかむ。
指の間から、止められない時間のように、さらさらと砂がこぼれ落ちる。

そこでオレは夢から覚めた。

実家に帰省し、仏間で昼寝をしていたオレは、妹の遺影が飾られてある仏壇に目をやる。
オレは涙を拭って、妹に言った。
「来年また遊びに来いよ」

それに答えるように、細く開いた窓の隙間から、浜からふいてくる一陣の風が通り抜けていった。

棚から女神

「どうですか、調子のほうは?」
心療内科の男性医師は眉にかかった白髪まじりの髪の毛をかきあげながら、いつものように優しく私に尋ねる。

「薬のお陰で夜は眠れるようになってきたんですが、ジンクスというのですか、そういうものにしばられることが多くて困っています」

「例えばどんな?」

「マンホールの蓋をふんだり、黒い車をみると良くないことが起きると考えるとか、この道をとおらないと一日安全に過ごせないと考えてしまうとか、そういうようなことです」
他にもいろいろあるのだが、数えあげればきりがないので、私は主だったものをあげた。

「強迫性障害というやつですかね」
男性医師は遠くを見るように、充血気味の眼を細めて私を見る。

「薬とかで治るんでしょうか?」

「薬物療法となると、セロトニンの作用を強めるような抗うつ薬を使うことになるんですがね、効果が出るまでにかなり時間がかかりますし、うつ病よりも多量の服用が必要になるんですわ。服用をやめると再発しやすいですし、あまり薬に頼らないほうがいいと思いますね」

「そうですか…」治癒が難しい現実を知って、私はますますうつな気分になる。「じゃぁ、どのようなことをすれば改善されるでしょうか?」

「強迫観念がでたら、これは単なる思考のくせだと思うようにすればいいと思います」

「思考のくせですか…」

「そうです」医師は、私の不安を叩きつぶすように力強く頷く。「強迫観念とは、なんでも悪く受けとめてしまうくせであり、それには現実に起こりうる不幸とは何の因果関係もないのだと思えば、少しは気が楽になりませんか?」

「まぁ…」
私は医師の勢いに押され頷きかけたが、それで強迫性障害とやらを克服できる実感がわかなかったので、その気持ちを素直に伝えた。

「そうですか…」
医師は眼を強く閉じると、しばらく思考にふけった。

医師が深刻そうな仕草をするほど、患者の不安は募るものである。

「そのくせを和らげる、何かいい行動療法はないですかね」
私は黙っていられなくなり、催促するように医師に尋ねる。
うつの症状が強くなり、私の額からは脂汗がながれ、呼吸も乱れ始めてきた。

「ちょっと休みますか、隣の部屋のベッドで」
医師は心配そうな表情を浮かべ、若い女性スタッフを呼んで私をそこに連れて行くように指示した。

その女性スタッフは無言で頷くと、私を隣室につれて行った。
そしてアゴでベッドに寝るように促すと、私の横たわったベッドの間仕切りカーテンを乱暴に閉めた。

ずいぶん無愛想なネエチャンだなぁ、と私は思った。

患者がこんなに具合悪そうにしているのに、大丈夫ですかの一言すらない。
初めて見る顔だが、最近入ったスタッフだろうか。
募集すれば、いくらでも人は集まるだろうに、先生はなんでよりによってあんな人を採用したのだろう…。

私は腹が立ってきて、気が休まるどころではなかった。

苛立ちと不安で最悪な気分でいると、ドアが開く音がして、カーテンの向こうから、「どうですか、お加減は?」と優しげな女性の声が聞こえてきた。

「だ、だんだん良くなってきました」
さきほどの無愛想な女性スタッフとは真逆の、癒し系の女性スタッフの影に私は答える。

「そうですか。良かった。何かあったら、呼んでくださいね」
彼女は心のこもった声をかけると、静かにドアを閉めて去っていった。

30分ほど休んで、私は診察室に戻った。

「どうですか、少しは落ち着きましたか?」と医師は尋ねた。

「ええ、まぁ…」と私は答えたが、腹の底にまだ私をベッドに連れていった女性スタッフへの怒りがくすぶっていたので、そのことを医師に話した。

すると、医師は「そうですか、それは申し訳ありませんでした」と謝罪した。

私はいつも丁寧に診察してくれる医師に申し訳なく思い、慌ててフォローの言葉を添えた。
「でも、その後に入ってきた、女性スタッフはとても親切で感じがよかったですよ」

「いや、どっちも同じスタッフですよ」と医師は言った。

「ほ、本当ですか!」
私は混乱した。
一重まぶたのいじわるそうな容姿と、あの癒し系の声はあまりに釣り合わなかったからだ。

「彼女もむかしうちの患者さんでしてね。いまも躁うつ症でくるしんでいるんですよ」

「そうなんですか…」

「でも、これも強迫性障害を克服する行動療法になるかもしれませんね」
医師は足を組み直して言った。

「それはどういうことですか?」

「つまりイメージと現実の違いを認識する、いい訓練になるということです」と医師は言って、ディスクトップパソコンのほうを向いて眼を閉じた。「テレビをみるとき、こうやって眼を閉じて下さい。そしてテレビから聞こえてくる人の声から、その人がどのような容姿なのかを想像してみるのです。目を開けてみると、ほとんどイメージと一致することはないでしょう。その訓練の繰り返しで、いかに自分のイメージが頼りないものか実感できるようになると思います」

「なるほど、それはマイナスイメージを修正する効果的な治療になるかもしれませんね」
直前にその体験を味わったばかりなので、私はその方法がとても有効に思えた。

「では、次の診察日は…」
と医師が言いかけた時だった。
ドアをノックする音がして、先ほどの一重まぶたの女性スタッフが現れた。

「このスマホ、ベッドに置き忘れていましたよ」
女性スタッフはあの癒し系の声で言うと、スマホをもった細い指を私に向けた。

絶叫のお化け屋敷

「キャー、淳ちゃん。こわ〜い!」
百貨店でやっているお化け屋敷に入るやいなや、ろくろっ首がだらんと天井から垂れてきたのに驚いて、真弓はおれの腕にしがみついてきた。

「馬鹿だなぁ。この程度のやつに驚いていたら、この先思いやられるな。ションベンちびるなよ」
オレは笑い飛ばす。

「ふん、高校生にもなって、おもらしなんかしないもん」
真弓は桃のようにやわらかな頬をふくらます。
まったくキュートなやつだ。

「でも、お化け屋敷に入りたいっていったのお前だかんな」オレはますます構いたくなり、へそ曲がりなことを言う。「オレは、映画のほうがよかったんだけど」

「映画なんて、こないだのデートの時もみたじゃん」真弓は唇をとがらせて反論する。「それに映画と違って、お化け屋敷はこの季節しかやらないんだよ。この季節しか」

「わかった、わかった」オレは手を振ると、真弓のように唇をとがらせて林修の真似をする。「いつお化け屋敷に入るんですか、今でしょう! だろう」

「もう、淳ちゃんたら、意地悪」
真弓はつかんだオレの右腕をつねる。

「イタタタッ、マジやめろよ。冬と違って素肌なんだから」
オレは真弓の手を払い、つねられたところを擦る。

「でも、淳ちゃん。全然怖くないの?」
真弓は、暗闇に不気味に光る骸骨に怯えながら訊く。

「恐いわけないじゃん、こんなの」
オレは胸の高さにあるその骸骨にむけて、パンチする仕草をしてみせる。

「やめなよ。バチ当たるよ」

「当たるわけないだろ、こんなつくりもん」
オレはなおも、二三発エアーパンチをかます。

強がりではなくって、オレは幽霊なんて全然怖くない。
そんなのいるわけがないと確信しているからだ。
サンタクロースがいないことを知った年齢から、お化けも同様にいないと思っている。

だからお化け屋敷も全然平気で、次々と脅かしてくる幽霊の仮装をしたバイト野郎をひやかしてやった。
それに対して、真弓は最後までキャーキャーと耳をつんざくような悲鳴をあげて、うるさいったらありゃしなかった。

「ホラ、これで終わりだ」オレは汗だくの髪をオレの肩にもたせかけている真弓の頬をたたき、暗闇の先で退場客に挨拶をしているシルエットのほうを見るように促す。「出口のバイトのねえちゃんに、たっぷり愉しませてもらいましたと挨拶しろよ」

と、その時だった。
「淳ちゃん」と、そのシルエットが叫んだ。「ちょっと、なにしているの!」

「エッ!」
聞き覚えのある声に背筋を寒くして、オレは恐る恐るそのシルエットに目を凝らす。

「まさみ!?」

「まさみじゃないわよ!」そのシルエットは、お化け屋敷から聞こえてくる悲鳴をうわまわる怒声を響かせる。「なに浮気しているのよ!!」

「ヒ〜ッ!!!」
オレは絶叫して、真弓の腕にしがみつく。

真弓は、そのオレの腕をねじあげて声を唸らせる。
「ちょっとナニよ。これって、二股をかけていったってこと!」

幽霊のうめき声。床にころがる血だらけの死体。木にぶらさがるボロボロの着物をまとった骸骨。
お化け屋敷の地獄のような景色が、我がいまおかれている修羅場を一層オドロオドロしいものにする。

オレはたまらず叫ぶ。
「助けて〜!」

霊界よりも、人間界のほうがよっぽど恐い。

人生設計について

みなさんは人生設計たるものを立てていますか?
つまり5年後、10年後の目標をたて、人生を終える時までにはこうなっていたいみたいなもんです。

ボクも一応そういうものは立てております。
何も目標を立てずに生きるよりも、目標をもって生きたほうが得るものが多いと思うからです。

ただし、細かく目標を立て過ぎたり、それを意識し過ぎることのないように注意しています。

世の中は自分の思うようにいかないものです。
となると、目標は細かく立てすぎれば立てすぎるほど、狂いが生じてくる可能性が高くなります。
その度毎、目標を達成できなかった自分を責めていたら、人生を楽しめませんし、自己評価を下げ続けることによって、かえって目標達成ができなくなるように思われるからです。

小説を書くスタイルと同じで、ボクは散歩と同じような感覚で目標と向き合いたいと考えております。
つまり、どこどこまで行って、何時までには家に帰ってきたいなと漠然と思いつつ、散歩を楽しむことを再優先にするというスタイルです。

それが一番散歩をする目的にかなっているように、人生を充実していきるには、そういう向き合い方が一番いいのではないかと思うのであります。

諭吉とじいさん

お盆になって、遠くに住む孫の良太が遊びに来る。

ワシは駅の改札口で、孫の姿が現れるのが今か今かと首を長くして待っている。
娘の聖恵の連絡によれば、11時10分着の新幹線に乗ってくるらしい。

「おじいさん、落ち着いて下さいよ」
ワシがそわそわと腕時計に眼をやるのを繰り返しているのを見て、ばあさんが言った。

「わかっとるわい!」
ワシは待ちくたびれた苛立ちをばあさんにぶつける。
そう言いつつも、天井からぶら下がっている駅の時計をチラリと見る。

今の時刻は、11時11分。
もう到着して、ホームから改札口にむかう階段を登りかける頃だ。

そう予測して、ワシは身支度を整えて改札口のむこうに満面の笑みをつくってみせる。
これでスタンバイオッケイじゃ。

しばらくすると、ざわざわと大勢の人の声がして、先を争うように改札口に突進してくる帰省客の群れが見えた。

「ほら、おじいさん。聖恵の姿が見えましたよ」
横でばあさんが声をあげ、手を振りはじめた。

ワシは急いでばあさんの後ろにまわり、背伸びしてその視線の先に目を凝らす。
すると、群れのなかで手を振っている聖恵の姿が見えた。
ああ、良かった。無事到着したか、とワシは安堵する。

良太の手をひいて聖恵が改札口を抜けると、良太は人混みをかきわけてワシの胸に飛び込んできた。

「よくきたのう」
ワシは良太をひしと抱きしめる。

良太に会うのは、正月以来だ。
そのときに比べて、すこし大きくなったような気がする。
来年は小学校にあがる孫の成長をたしかめて、ランドセルはワシが買ってやるぞ!と心のうちで叫んだ。

「おじいちゃん、福沢諭吉ってすごいよね」
抱擁をやめて手をつないで歩き出すなり、良太はワシの顔をみあげて言った。

「おお、難しい人の名前を知っとるのう」
ワシは、孫が唐突に歴史上の偉人の名をあげたのに驚く。

「ボクね、小学生になったら、いっぱい勉強して、福沢諭吉のつくった大学にいくよ」

「慶応大学か。それはすごい。頑張るんじゃぞ」
ワシは孫の頭をポンポンと優しくたたく。

後ろでばあさんと話しながらついてくる娘の聖恵は、あまり勉強が好きでなくて大学は出ていない。
婿の陽介も、高卒だ。
もし本当に孫の良太が慶応大学に進学できれば、鳶が鷹を生むことになる。
ワシは、孫が大学に入るまで長生きせねばならぬと思って、聖恵似の孫の顔を愛おしく見つめる。

「うん、ボク頑張る」と良太はその顔を大きく頷かせると、ワシの手をくいくいと引っ張ってきた。「でもボク、福沢諭吉と同じくらいおじいちゃんを尊敬しているよ」

「おお、そうか。それはうれしいのう」
農家をやっているじいさんが、そんな偉人と肩を並べられて、ちょっとこそばゆくなってくる。
しかし孫から尊敬されるのは、率直にうれしい。

孫はワシの顔をじっと見て、「おじいちゃん、福沢諭吉に似ているね」と、さらに持ちあげるようなことを言ってきた。

こんな馬面で禿頭のじいさんに、どこがどう福沢諭吉と似たパーツがあるのかわからないと思いながらも、悪い気はしないので、「ありがとよ」とワシは答える。

すると、「良太たら、もう」と聖恵の呆れた声が後ろから聞こえてきた。

「おじいさん。お小遣いがほしんじゃないですか」
続いてばあさんが後ろから声をかけてくる。

ああそうか。それで福沢諭吉の名前を繰り返していたのか…。
ワシはようやく、孫の意図を飲み込んだ。

それにしても、幼稚園児が一万円なんて、大金すぎる。
そう思いながらも、孫かわいさで、「そうかそうか、あとでお小遣いあげるからな」とワシは約束する。

しかし良太は首をふって、「お小遣いじゃないよ」と言った。

「じゃ、なんじゃ」

「お盆玉だよ」

「お盆玉?」
初めて聞く言葉にワシは戸惑う。

ばあさんも知らないようで、「お盆玉って、なんじゃね」と聖恵に訊いている。

「お年玉の、お盆バージョンのようなものよ」と聖恵。「それ用の、袋も売っているわよ」

「そうなんかね」とばあさん。

知らないうちに、風習がかわっていくもんだ。
パソコンもいじれない田舎のじいさんには、とてもついていけない。

気持ちいい午前4時の散歩

ようやく夏休みに入りました。

ボクは休みの日といえば、健康づくりとストレス発散をかねて散歩をするのを習慣にしています。

散歩に出かける時間は午後2時と決めていますが、さすがにこの猛暑。
その時刻はもっとも暑く、とても出かける気になりません。

ということで、最近は涼しい早朝に切り替えました。

で、出発時刻は、午前4時。
だいたい午前3時半に起きて、ブログを投稿しているので、一区切りつく時間がその時刻なのです。

また、その頃に出かけると、日もだんだん明けてくるわけで、朝の素晴らしい景色を堪能できるわけでありますな。

それともうひとつ、その時刻にでかける理由があります。
それは、愛聴しているラジオ番組の時間と重なることです(ラジオ機能付きのボイスレコーダーを携行しています)。

そのラジオ番組とは、NHKラジオ放送の『ラジオ深夜便』内でやっているコーナー「明日へのことば」です。

けっこうまじめな内容なんですが、その静かで心にしみるトークと、まだ眠りからさめていない静謐な朝の街の雰囲気とが、実にぴったりくるんです。

心の中まで洗われるような清々しい気持ちで一日をスタートできるので、オススメです。

オレオレ去る

不埒悪男はタバコをふかしながら、ある情報屋から買い取った個人情報のなかから適当なカモを選んでいる。
そのなかから中古バイクショップを営んでいる老夫婦に目をつけた。

この老夫婦には、二十八になるひとり息子がいる。
息子は老夫婦を残して都会にでて働いている。

自営業で金をもっていそうだし、息子ともしばらくあっていないようだ。
おまけに大切な一人息子ときている。
これは、いいカモになるかもしれない。

不埒悪男はタバコを灰皿に置くと、受話器を上げ、この老夫婦の自宅に電話をかける。

すると、まるでそこで待ち構えていたかのように、急き込んだ感じの老婆の声が聞こえた。
「はい、もしもし」

「あっ、オレだけど。母ちゃん元気?」
不埒悪男は、まじめな若者の声をつくって言う。

「なんだ、政男かい」
予想に反して、がっかりした様子の老婆の声。

「実はさあ、使い込んだ会社のお金が上司に見つかっちゃって、クビになりそうなんだよ」不埒悪男は萎れたような声をだす。「上司はすぐに返済すれば、黙っておいてやるというんだけど、なんとかならないかなぁ。300万なんだけど」

「300万…、そんなのこっちがほしいわ」噛みつくような老婆の声が返ってくる。「父ちゃん、いま当座預金に入れるお金をかき集めに駆けまわっているんだよ。1度不渡りを出しているから、今度お金を入れられなかったら、ウチはもうお終いだ。だから今か今かと、父ちゃんの電話をまっているんだ。そしたらお前の電話だよ。でも、これもなんかの縁だ。アンタお金貸してくれんかね」

「いやいや、お金がないから電話しているんじゃないか。頼むよ、300万。早く返済しないと、会社クビになっちゃうよ」

「いいじゃないか、クビになったって」親とも思えない素っ気ない返事をする老婆。「アンタの勤める会社、ブラック企業なんだろ。いつも辞めたい辞めたいとこぼしてたんだから、これを機会に辞めちまえばいい」

「そんな…」
すっかり当てが外れたと、絶句する不埒悪男。

「どうせ辞めるなら、もっと会社のお金をひきだして、こっちに振り込んでくれんかね。午後2時までに…」
老婆の懇願を断ち切るように、不埒悪男はガシャンと受話器を置いた。

砂の城

「寛平よ。跡目のことじゃが、どうしたものかのう」
武将赤池義清は浜辺で遊ぶ双子の幼い息子を眺めながら、軍師寛平に訊く。

「はぁ…」
即座に答えかねて軍師寛平は言葉を詰まらせる。

赤池義清の六歳の双子は、性格が正反対である。
長男の信繁は茫洋としており、外で遊ぶのを好む。
それに対して次男の広忠は利発で、向学心がある。

次男が優秀なので、どうしても長男がうつけ者に見えてしまう。
家督を継ぐのは長男が常識的であるので、赤池義清は頭を悩ませているのだ。

「双子であれば、同時に生まれたようなものじゃ。どちらが家督を継いでも、うるさく言われまいと思うのじゃが」

赤池義清は、次男の広忠に家督を継がせる気でいるらしい。
軍師寛平は、それは性急であると思った。

「どちらが親方になる才があるか、ひとつ試してみましょう」
軍師寛平は、双子がもってきた甲虫のはいった虫かごをもちあげて言う。

「なに、その虫かごでか?」

「はっ」
軍師寛平は頷いて、浜辺で追いかけっこをしている双子を呼ぶ。

双子は息をからして赤池義清と軍師寛平のほうに駆けてくる。

「なんじゃ寛平」
尋ねてきたのは、遅れてきた次男の広忠のほうである。

「城づくりの競争をしませぬか?」

「なに、城づくりじゃと」と広忠。

「そうでございます。浜辺の砂をつかって、ご兄弟で城づくりの競争をしてもらいたいのであります」と寛平は答えて、二人がもってきたそれぞれの虫かごを彼らの顔の高さに持ちあげる。「この虫かごを殿様のおられる御殿に見立てて、城をつくってください。さぁ、どちらが立派なお城を建てられるか。お父上も、楽しみにしておりますぞ」

「うむ」赤池義清は寛平に目配せを受け、流されるまま頷く。「浜辺へ急いで、城づくりを始めよ」

「はっ、父上!」
広忠は快活に答え、踵を浜辺の方に向ける。
遅れて信繁は、キョロキョロとあたりを見ながら浜辺の方に歩いていった。

浜辺についても、信繁の動作は緩慢であった。
すぐに城づくりに着手した広忠に対して、信繁は天を仰いだり、波打ち際のほうへ歩いてみたり、一向に城づくりにとりかかる気配がない。

「やはり、うつけ者かのう」と赤池義清はため息をつく。

信繁が暢気にしているあいだに、器用な広忠は五重六階の立派な城を造形していく。

「馬鹿め。早くしないと天気が崩れてしまうわい」
赤池義清は黒い雲が広がり始めた天を仰いで言う。

そこでようやく、信繁は築城をはじめた。
しかしそれは簡単なものであった。
広大な円のまわりに堀をつくると、その中心に虫かごを置いただけのものである。

同時に広忠も、天守閣に虫かごをおいて城をつくり終えた。

「どう見ても、広忠の勝ちじゃのう」と赤池義清は沈んだ声で言った。

しかし寛平は、「どうですかな」とほくそ笑む。

「決まっとるじゃろう」
赤池義清が寛平に顔をむけたとき、ついに大粒の雨が降り始めた。

にわか雨は、あっという間に激しい音をたてて浜辺を濡らした。

寛平の指示で大木の木陰で雨宿りをする赤池義清と双子の息子は、遠くに見える城をじっと見守る。

「ああ、せっかくつくったのに…」
豪雨に打たれて、天守閣が崩れていく城を眺めながら広忠は落胆の声をあげる。

「天候を読みましたな」
寛平は、平然とした顔で城をみつめる信繁に尋ねる。

「入道雲の動きがあやしかったのでのう」と信繁は答える。

信繁のつくった城は、浜辺のうえに虫かごをおいただけなので崩れようがなく、その城のまわりにはられた深い堀には敵を寄せつけない量の雨水がたまっていった。

ゆるキャラ抱っこの感想

巨大なショッピングモールに設けられた野外ステージには、猛暑日にもかかわらず、子供をつれた大勢の観客が集まっている。
子どもたちのお目当ては、この野外ステージに来るという、ゆるキャラで大人気の「イボッシー」である。

有名でないお笑いコンビの漫才が終わった後、司会のお姉さんは子どもたちにむけて言った。
「さてそれでは、いよいよお待ちかねの、イボッシーを呼んじゃおうかな」

お姉さんがそう言うと、退屈で会場を走り回っていた子どもたちは立ち止まり、ステージに眼をやる。

その様子を見て、お姉さんは号令をかける。
「それじゃ、みんなで一緒に呼んでくれるかな。せーの!」

イボッシー!

観客席からイボッシーを呼ぶ子どもたちの声が響くと、ステージに「イボッシー!」と元気のよい声をあげて人気者のイボッシーが現れた。

テレビでも毎日のように登場し、全国のイベント会場で引っ張りだこのイボッシーを目の前で見られたとあって、子どもたちは大喜びで、ステージの前に我先に集まってくる。

「イボッシー、今日もイボ汁いっぱい出てる?」
お姉さんは、めいっぱい身を引いてイボッシーにマイクを向ける。

「出てるッシー!」
イボッシーは、テレビでお馴染みの飛び跳ねるような反応をして答える。

「みんな出てるって」お姉さんは言うと、ステージのまえにかぶりついている子どもたちに目をやる。「それじゃ、このなかで一人だけ、イボッシーに抱っこしてもらおうかなぁ」

「ヤッター!」と大喜びする子どもたち。

「それじゃ、じゃんけんで勝った子にステージにあがってもらいます」というお姉さんの提案で、じゃんけん大会が始まった。

じゃんけん大会に勝った子は、5歳の女の子だった。

ステージにあがったその子に、お姉さんは尋ねる。
「イボッシー好き?」

「うん、大好き」と女の子は答える。

「そう、よかったね。これからその大好きなイボッシーに抱っこしてもらえるんだよ」お姉さんは女の子の手を引いてイボッシーの近くまで連れて行く。そしてイボッシーに訊く。「じゃイボッシー、この子を抱っこしてくれるかな」

「わかったシー!」
イボッシーはそう叫んで、女の子を抱き上げた。

「どう、イボッシーに抱っこされた感想は?」
お姉さんは女の子にマイクを向ける。

女の子は顔をしかめて答えた。
「汗臭〜い」

「忙しすぎて、洗濯する暇がないッシー!」
イボッシーは、ちょっと怒気を含んだ声で叫んだ。

天国からのエール

土手のまっすぐに伸びた道に、真夏の夕日が眩しく反射している。
その強い光線を浴びる山々は、まるで高級絨毯のようになめらかな緑の肌をみせている。
空が広いので、噴煙のように巨大にもりあがった入道雲に圧倒される。
土手の下では広い川が紅色に染まり、ゆったりと流れている。

普段なら、私はこの美しい光景をスマホのカメラに収めただろう。
でも、今日の私は落ち込んでいる。
慕っていた上司が突然病に倒れ、その後任にあまり評判のよくない上司がつくことになったからだ。

その上司は、フケだらけの長髪で、土気色の顔に黒縁眼鏡をかけており、見るからに陰気だ。
性格も粘着質だという。
私の最も苦手とするタイプである。
新しい上司とうまくやっていかれるだろうかと思うと、陰鬱になった。

いっそのこと、翔ちゃんと結婚しちゃおうかなぁ。
そんな考えが頭をよぎる。

でも、アタシは翔ちゃんのことを本気で好きなのだろうか。
ただ惰性で付き合っているような気がする。
翔ちゃんは、子供っぽいし、短気なところがある。
そんな性格だから、いつ正社員になれるかわからない。
勤めが嫌だから結婚に逃げるような選択は、やっぱり間違っているような気がする。

私は気が滅入りすぎて、座り込みたい気分になる。
見ると、土手を下った木陰のところに、石を削った腰掛が見える。

そこで一休みしようと、滑らないように注意しながら雑草の生えた土手を降りる。

「ヒャ〜!!」
私は悲鳴をあげる。
アカシヤの木の下を潜ろうとしたら、顔に蜘蛛の巣がかかったのだ。

蜘蛛の巣を払いながら目を開けると、巣を壊された女郎蜘蛛が大慌てで這いあがっていくのが見えた。

女郎蜘蛛を眼で追いながら、私は幼い日のことを思い出した。

子供の頃、私は蜘蛛が大嫌いだった。
それを克服してくれたのは、私の大好きな祖父だった。

あの時も家の門の付近にできた女郎蜘蛛の巣が私の顔にかかった。
私が驚いて大騒ぎしていると、庭で水撒きをしていた祖父が飛んできた。

私が号泣している理由がわかってホッとした様子の祖父は、私の顔についた蜘蛛の巣を丁寧にとってくれながら言った。
「ホラ、泣かないでよく見てご覧。蜘蛛の巣が3重になっているのがわかるだろ。一番手前の網が、真ん中の網の蜘蛛のお家を守るためのもので、一番後ろの網はゴミ捨て場になっているんだぞ」

「ゴミ捨て場?」
私は涙を拭いながら、祖父の指差す別の女郎蜘蛛の巣を見あげた。
確かに一番後ろの網に虫の死骸が捨てられてあった。

「きれい好きなんだよ。蜘蛛さんは」祖父は優しく諭してくれた。「頭から嫌いだと思っていれば、何もそのものの良さは見えないんだぞ。嫌う前に、澄んだ眼でよく観察してみること。そうすれば、少しはそれに関心がもてるようになるんだよ」

「おじいちゃん…」私は今は亡き祖父のことを思い出し、西の夕焼け空を見あげる。「そうか、はじめから嫌っちゃ何も見えないんだものね。アタシ頑張ってみるよ」

そうつぶやくと、心に響かなかった美しい風景が、いつものように輝いて見えた。

不良の遺書 (下)

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「遺書とはどういうことだ?」
小林校長は柴田教諭から紙を受け取ると、丸メガネを眉の上にあげ、それを読み始める。

「遺書」には、こう書かれてあった。

信じてもらえないでしょうが、ボクは未来からやってきました。
世をはかなんで自殺しようと校舎の屋上から飛び降りたら、なぜかこの1942年にタイムスリップしてしまったのです。

結論から言いましょう。
日本は戦争に負けます。
そしてあなた達の軍事教育も、戦後全否定されます。

ボクは、未来の教室でも問題児でした。
先生方の教える授業内容に不信感を抱いておりましたし、それを疑いもなく丸暗記して、いい学校に進学することばかりを考える級友ともうまくいかず、ボクは完全なアウトサイダーだったのです。

そんなボクを唯一理解してくれたのは、おじいちゃん(ボクの死んだ母親のお父さん)でした。
おじいちゃんは、再婚してボクを捨てたお父さんのかわりに、ボクの面倒をみてくれていました。

しかし、そのおじいちゃんも亡くなりました。
ついにボクは天涯孤独になってしまいました。
その絶望感に耐えきれず、ボクは自殺に走ったのです。

ボクが教育に不信感を抱いたわけは、おじいちゃんの影響があります。

おじいちゃんはいつも戦争だけはやってはいけないと言っていました。
戦争で家族を失っただけでなく、ひどくひもじい思いをしたからだそうです。

しかしボクは、それに反発を感じていました。
戦争を経験した多くの人は同じようなことを言いますが、それならなぜその暴走を止められなかったのかと思うからです。

それに対するおじいちゃんの弁明は、決まっていました。
戦争に反対したら非国民扱いされるし、わしらは学校で軍事教育を受けていたから、お国のために戦うことは正しいものだと思い込んでいた、と。

だったら、そんな教育は間違っていると誰かが言ったら、自分たちの誤りに気がついたのかときくと、おじいちゃんは、それはわからん、と首をふるだけでした。

それほど子どもたちを洗脳した教育とはどんなものだったのか、ボクはその時代に行ってみたいという願望をもっていました。
それがこういう形で実現できるだなんて思ってもみませんでした。
もしかしたらこれは夢なのかとも、いまでも思っています。

日本が戦争に負けるとわかっている立場から授業を受けたせいかもしれませんが、ボクは先生たちからいくらも感化されませんでした。
だから、とてもまじめに授業を聞く気になれず、先生たちの忌み嫌う敵国の本ばかりを読んでいました。
それは学校においてある本が皆、戦争を賛美するバカバカしい本しかなかったからであります。
また、反戦的な本を読むことで、ボクは先生たちと戦っていたのです。

級友たちに目覚めてもらいたいと思い、軍事教育が誤りであることも訴えました。
しかし誰からも理解されず、ボクは孤立していきました。

ここで打ち明けますが、ボクが最後に大げんかした山田という生徒は、ボクのおじいちゃんです。
その最愛のおじいちゃんからも否定され、ボクは本当に一人ぼっちになってしまったような気になりました。

おじいちゃんが言ったように、ボク一人が騒いだところで何も変わるわけがなく、ただ不良のレッテルを貼られるだけなのですね。
ボクはどうやら、この世にとって「不要の人」であるようです。

しかし最後までボクは自分を間違っているとは思っていません。
この世に完璧なものなど、あるはずはないからです。
教育も例外ではないはずです。

おかしなことをおかしいからと言って、どうして不良扱いされるのか納得はいきませんが、ボクはすでに自殺した身です。
この世にとどまっているわけにはいきません。

未来の世界も、再び学習のない選択の道を歩みつつあります。
そうなれば、先生たちの教育もまた見直されるかもしれません。

でも先生、考えて下さい。
不良って、何なのかを。
そういう生徒を一人も出さないことに教育の使命があるのかを。
戦争に反対すれば「非国民」になる恐怖を植えつけることは、子どもたちに「いじめ」の正義を教えこむことではなかったのかを。

〈完〉

不良の遺書 (上)

「しかし何だね、あの尾崎って生徒は」北部第一中学校長小林武は、担任教諭の高橋宏を校長室に呼びつけると、さっそく小言をはじめた。「今朝の全校集会で壇の上から見とったが、ワシが大事な話をしているというのに、小馬鹿にしたような表情を浮かべて、そっぽをむいている。とんでもない不良だよ、彼は」

「はっ、それは誠に申し訳ありません」高橋宏は深々と頭を下げて謝罪をすると、弱った表情を校長に向ける。「ワタシも尾崎には手を焼いていまして。授業は聞く気ありませんし、仲間とはけんかばかりしています」

「なに、けんかだと…」小林武校長は丸メガネの下の細い目を釣りあげた。「何が不満でそんなことをするのだね」

「はぁ」新米教師の高橋宏は直立不動で答える。「今朝も山田という生徒と大げんかしまして、後で山田に事情を訊いたところ、喧嘩の原因は尾崎が『よくこんな授業を聞いていられるなぁ。頭おかしいんじゃねえの』とふっかけてきたことにあるそうです」

「それは困るねえ」小林武校長は腕を組んで唸った。「他の生徒が感化されたら、大問題に発展するよ」

「それはワタシも心配しています」と高橋宏はため息をもらす。「この間も尾崎のヤツ、授業中に小説をよんでおりまして、それを取りあげたら、それはなんと、アーネスト・ヘミングウェイの書いた『武器よさらば』という小説でした」

「なんだと、そんな不謹慎なものを読んでおったのか、授業中に」小林武校長は丸メガネをはずすと、眉間に深いシワを寄せてドアの方を睨んだ。「まったくけしからんやつだ」

と、その時である。

「大変です! 校長」
校長が睨むドアがいきなり開いて、柴田教諭が慌てた様子で校長室に駆け込んできた。

「何だね。ノックもせずに」小林武校長は不機嫌な表情を、そのまま柴田教諭にスライドさせて叱った。「こっちはいま尾崎という生徒について重要な話をしとるんだ」

「はっ、その尾崎という生徒のことなんです」
走ってきたせいなのか、動揺のせいなのか、柴田教諭は息切れをしながら言った。

「なに、尾崎だと」小林校長は柴田教諭を睨みあげる。「また、けんかでもしたのか」

「いえ」と首を振って、柴田教諭は手にもつ紙を小林校長に差し出した。「消えたんです、この遺書をのこして」

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草食系男子の武勇伝

「おっ、ヒーローのお出ましだぞ」
細井良介が遅刻するかとヒヤヒヤしながら出勤すると、直属の上司である伊丹雄三課長は満面の笑顔で迎えた。

この課長はイヤミユウゾウというあだ名がつくくらい口が悪いので、最初、細井良介はイヤミを言われているのかと思った。

しかし、課の同僚は温かな拍手をもって迎えてくれるし、いつもは小馬鹿にした視線を送ってくる女子社員の視線も、何だか今日は様子が違う。

もしかして、みんながグルになっての、どっきり?
そう疑いつつ、細井良介が遅刻しそうになった理由を説明しようとすると、伊丹雄三課長はそれを遮るように言った。
「いや、そんなこと言わなくていい。君のことだ、何か深い事情があって遅刻しそうになったのだろう。昨日のようにね」

「見直したわよ、細井さん」
課のマドンナである櫻井舞は、細井良介の両手を握ってきた。

「ヒュ~、ヒーローはもてるねぇ」
ひょうきん者の同僚が茶々を入れる。

「ズルイ、舞ったら、そんな色目つかったりして」
櫻井舞と仲の良い女子社員の声も聞こえてくる。

いつから自分はそんなにもてるようになったのか、と細井良介は動揺する。

「でも何で黙っているんだ、あんなにすごいことをしたのに。今朝、新聞を見て初めて知ったぞ」と伊丹課長は言う。

「はぁ…」
戸惑った返事をする細井良介。
彼は寝坊して今朝の新聞を見損なったのだ。

というのも、昨日は帰宅途中、八百屋に強盗にはいった犯人をつかまえ、その事情を夜遅くまで警察官や新聞記者に訊かれ、寝坊してしまったからだ。
おそらく、課長の話題にしているのは、そのことだろうと推測した。

「すごいわね、強盗犯をつかまえるなんて」と櫻井舞はひどく感心したように言う。

「でも、その強盗犯、おじいちゃんだし」と細井良介は恐縮して答える。

「確か、76歳って書いてあったわねぇ。でも、はものを持っていたんでしょ」

「はものたって…」細井良介は気恥ずかしそうに櫻井舞を見る。「包丁とかの刃物ではなくって、八百屋から盗んだ葉物のほうれん草だからね。それで叩かれたって大したことないよ」

「アラ、そうなの…」
急に冷めた声色にかわる櫻井舞。

「まぁ、ご苦労さん」伊丹課長も素っ気ない口調にかわると、みんなに「さぁ、仕事仕事」と呼びかけ、デスクに戻った。

潮が引くように去っていく同僚を眺めながら、細井良介はさらに彼らとの溝が深くなったと思ったのであった。

破滅の愛

洞穴のように薄暗い6畳の部屋の厚いカーテンの隙間から、真夏の夕日が差し込む。
その日差しはちょうど俺の眼のあたりに当たっているが、意識が朦朧としているせいか、蜃気楼のように揺らいで見える。

「イテテテッ」
恐らく悪性腫瘍によるものと思われる激痛で、下腹部がえぐられるように痛む。

こんな状態がもう二ヶ月も続いている。
俺は骸骨のように痩せ、もはや自力で立つことはできない。
明日は朝陽を拝めるのかわからないような状態だ。

「兄さん、しっかりしろ」
3歳年下の弟が俺の体を揺する。

あの頃、弟は長髪の美青年だったが、今では頭頂部が薄くなり、すっかり初老の男だ。
ずいぶん二人で頑張ったものだと思う。

しかし俺はもういけない。
病気では、どうしようもないのだ。
だから「俺はもうだめだ」と、弟に弱気なことを言ってしまった。

すると弟は、「何を言っているんだよ、兄さん。あともう少しで幸せになれるんじゃないか。ここでへたばったら、今までの苦労は無になってしまうんだぞ」と泣きじゃくりながら言った。

俺は弟に揺すられながら、時計に目をやる。
俺の目尻からも涙がながれる。

悔しいのは俺も同じだ。
せっかくここまで頑張ったのに…。

しかしこうなってしまえば、どうにもできない。
世の中そんなに甘くないと思うしかない。

俺は苦しい息の下で言った。
「お前は幸せになってくれ。俺の分も」

「嫌だよ、そんなの!」弟は叫んで押入れの襖を開くと、そこに隠してあるタイムマシンに乗り込んだ。「待っていろ、兄さん。病気が悪くなる前のころにタイムスリップして、お医者さんに手術してもらってくるから」

「やめろ、そんなことをしたら…」
俺は病身の余力を振りしぼって声をあげたが、弟には届かず、弟とタイムマシンは押入れから消えた。

しばらくすると、弟の試みは成功したのか、俺の体に生気が蘇ってきた。
でも、俺は喜べなかった。
その成功は破滅への扉を開けるリスクもはらんでいるからだ。

俺は一刻も早くこの部屋から逃げようと立ち上がった。
その時だった。

ボロアパートのドアを強くノックする音がした。
窓の外にも、人の気配がする。
どうやら俺は包囲されているようだ。

だから病院にかかるのを避けていたのだ。
病院にいけば身元がバレる。

クソ、あと6時間で時効になったのに…。

灼熱の重労働

昨日の月曜日は、会社休んじゃいたいなと本気で思うくらい憂鬱でした。

先週の木曜日に機械が壊れ、手作業で重たい液体を何度もタンクに移さなければならないという、苦行のような作業が待っていたからであります。

その重労働は、金曜日に経験済みでした。
もう二度とやりたくないというほどへたばり、その恐怖で土日はかなりブルーでした。

肉体労働のキツさだけでなく、作業環境もよろしくないのも憂鬱の種です。
というのも、ボクの働いている現場はクーラーがついていないのであります。

そのうえ蒸気を使うので、まるで蒸し風呂。
金曜日はTシャツを絞れば、滝のような汗がしたたり落ちました。

家に帰ったときは、疲労と筋肉痛で、点滴が必要なほどグロッキーになってしまいました。
で、点滴のかわりに浴びるほどビールを飲んだのですが、二日酔いで余計に症状が悪化するという散々な目に…。
馬鹿ですねぇ。

今週はおまけに、来週から始まる夏休みの分も稼がなければならないので、かなりハードです。
つまり、金曜日以上の苦行が待っているというわけでありますな。

真夏日も容赦なく続くようです。

これでもかというくらい、過酷な環境が積み上がっていくのであります。

ああ、神様助けて下さい。
そう祈りながら会社に向かいました。

しかし現実はそんなに甘くはありません。
灼熱の砂漠でオアシスの水を汲みに何度も往復する難民の少女のようなキツイ作業に、死ぬほど苦しめられたのであります。

今日部品が届くそうですが、修理が終わるまでは、この作業を続けなければなりません。
しかし先が見えてきたので、頑張りたいと思います。トホホ。

同姓同名の重圧

不出来な演技しかできなかった荒川静香は、こんな結果に終わったのは観客らのせいだと言わんばかりに、観客席を睨みつけると、コーチの元へと帰っていった。

まもなく、得点がでた。
やはり、それは振るわないものだった。

「やってらんないわ!」
荒川静香は吐き捨てるように言う。

「そう投げやりになるな」とコーチはなだめる。「そういう姿もカメラにとられているんだから、注意しないと」

「注意もクソもないわ」と荒川静香は髪の毛をかきむしりながら言う。「だって、やる前から笑われているんですもの。あの偉大な荒川静香と同姓同名ということで。そんな嘲笑のなかで、まともな演技ができると思います? できっこないわ!」

「気持ちはわかるよ。気持ちは」
コーチは、荒れる彼女の背中を優しく擦る。

しかし荒川静香はうるさいとばかりに、背中を揺すってコーチの手を払いのける。
「わかりっこないわ。観客席から、どこがクールジャパンだよ、って声が聞こえてくるのよ。容姿のことを馬鹿にされるのが、女性にとってどれほど苦痛か、わかります?」

確かに彼女は金メダリストの荒川静香に比べて、顔が大きく、短足胴長だ。
それは荒川静香というより、ものまねタレントのキンタローに近いものがある。

そんなちんちくりんな体型のアイススケーターが、大根足がむき出しになる短いピンクのスカートを着て、リンクに現れたら、茶化すなというほうが無理かもしれない。

「でも、悔しいわ」と荒川静香は真っ赤なルージュを塗った唇を噛みしめる。「どうせ比較されるのなら、絶世の美女と比較されたいわ。それが荒川静香だなんて、ちょっと中途半端すぎるわよ」

「いや、それは失礼だぞ」とコーチはたしなめるように言う。「人間の価値は顔ではない、ハートだよ、ハート」

「ハート…」荒川静香はせせら笑うように言う。「それって、コーチも荒川静香が、それほど美人ではないって認めてることになりません?」

「あっ、いや、そういうつもりは…」

「もういいです!」と荒川静香はピシャリと肉付きのいい太ももをはたくと、天を見あげて言った。「あ〜あ、名前を変えたい」

「名前を変えたい?」

「ええ」荒川静香は、自分をマジマジとみつめるコーチの顔を鋭い眼光で睨んで言う。「芸名じゃないけれど、今度の大会までに別な名前を考えてきて下さい。でないと、わたし頑張れません」

その剣幕におされて、コーチはその無理な要求を飲むしかなかった。

そして大会が近づいたある日、新たな名前を考えたと、コーチは荒川静香を呼んだ。

「よく考えてみたらね。荒川静香って名前は、大きな矛盾を含んでいることに気がついたよ」と、荒川静香の顔を見るなりコーチは言う。

「どういうことです?」と、荒川静香は首を傾げる。

「だって、荒川が静かなわけないだろ」とコーチは得意満面で答える。「だから、新たな名前を、荒川轟音にしてみたんだけど、どうだろう? 君にピッタリなような気がするんだが」

「荒川轟音…」荒川静香は信じられないといった表情で、轟音のような大声で却下する。「いやです。そんな名前!」

「エッ、せっかく考えたのに」コーチは残念そうに答えたが、すぐに気持ちを切り替えたように笑顔で言う。「じゃ、これはどうだ。荒技静香。荒技をクールにやるって感じで、いいだろ?」

「どっちも嫌です!」
荒川静香はそう叫ぶと、金輪際フィギャースケートなんてやるもんかという勢いで、激しくドアを閉めて出ていった。

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マウントエレファント

Author:マウントエレファント
アルパカとバラとスプリング、つまり春(おまえはルー大柴か)を愛するナイスミドル?なサラリーマンです。でも同僚には、そんな趣味、ばらしません。キモイっていわれますから。残念!(古っ!)

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